太閤記は切腹命令

 

儒学者である小瀬甫庵が、江戸時代初期に書いた太閤記は切腹命令という文書を載せている。自身の身の潔白を証明するために自分の判断で切腹したと思われている。秀吉が同月12日に高野山の僧である木食応其へ宛てた書状に着目した。登り坂も厳しく徒歩だと3日以上はかかるという。矢部准教授はこの日付について、京都から高野山までは約130キロの距離がある。金剛峯寺の前身である青巌寺で切腹した秀吉は、秀次を長期間、高野山に住まわせようと画策していたようだ。子供のいない秀吉の養子になり、関白を引き継いでいる。切腹に至る詳しい事情が記された同時代の史料はないが、こんな通説に国学院大の矢部健太郎准教授が疑義を呈している。そこには料理人や世話係などを用意してほしいと記されていた。